|
|
やっぱり神社で「厄払い」 | 21.9.24 |
幸せはどこから来るか? | 21.8.1 |
神葬祭という選択 | 21.6.3 |
辛い時こそ大チャンス | 21.3.9 |
「命」いのちというもの | 20.11.10 |
何気ない日常・・だから神社へ | 20.8.3 |
初詣・祈願のツボ | 19.12.9 |
初宮参りだけは氏神さまへ | 19.8.15 |
神道は「超宗教」!! | 19.6.22 |
お礼まいりのススメ | 19.3.20 |
初詣・まわる順番 | 19.2.7 |
伊勢神宮式年遷宮 | 19.1.10 |
いつも心に神様を!! | 18.5.26 |
厄年について | 18.1.30 |
初詣・縁起の良い時間帯は?? | 17.12.7 |
家相は迷信か?? | 17.7.11 |
恵方巻と歳徳神 | 17.2.20 |
七五三についての提言 | 16.10.20 |
私見 神仏の違い | 16.9.5 |
近頃のお子様 | 15.8.27 |
笑門来福 | 15.5.21 |
どんと祭について | 15.3.9 |
やっぱり神社で「厄払い」 神社とホテルなどの神殿との違い 平成21年9月24日 他所の事はいざ知らず、当神社の周辺の市や町では中学校の同級生同士が集まり、団体となって「厄払い」や還暦などの「年祝い」を行う事が慣例となっております。学校の規模によっては200名を超えるような大規模なものとなり、地域のお祭りなどではこれら25歳の厄年や42歳の厄年の皆さんが大きな役割を果たしている所が多いようです。この事自体とても素晴らしい事で「厄年=役年」を「地で行く」事であり、主たる行事である「厄払い」や「年祝い」の当日は、時に恩師を交えて同級生同士の絆を深める良い機会となっています。
これだけの規模の団体の宴会ですから、周辺ばかりでなく各地の温泉や宴会場も大いに力を入れており、その値段とサービス内容を競っています。実際のところ、「厄払い」や「年祝い」をネタに飲んで盛り上がるという所がメインではありますが、「大義名分」が無くては飲むわけにも行かず、「どこか」でみんなそろって「御祈祷」を受けた後、大宴会へと突入します。 大規模な宴会ができるようなホテルなどの会場では、結婚式用の神殿がある所が多く、そこ神殿で「御祈祷」を受ける場合と、学校のある地元もしくは地元に近い神社で受ける場合とがありますが、実はここに大きな問題がひそんでいます。 ところで、神主さんがいるような神社では、年に一度の「例祭 (れいさい) 」を欠かさず行っています。「例祭」は数ある神社のお祭りの中で最も大事なお祭りで、国と地域の平和と繁栄をお祈りするという事の他に、御神霊の力を元通りの強さによみがえらせるという意味もあります。 宴会場等の神殿は、多くが近くの神社の「御分霊」をおまつりしていますが、この「神殿の神様」にとって最も大事な「例祭」を全く行っていない所が、少なからず存在するのです。あたりまえの事ですが、「例祭」を斎行しない事によりすっかり神威の衰えてしまった神殿で「御祈祷」を受けても多くの御加護は期待できません。毎年きっちり「例祭」を行っている神社から戴ける御加護に比べれば、僅かな物であるのは明白です。 確かに宴会場の神殿で「御祈祷」まで行ってしまえば、移動の手間が省けて楽な事は確かですが、「わざわざ」神社にみんなそろって出向いて「御祈祷」を受ける事にこそ、重い意味があるのです。「わざわざ」そろって出向く事は神様に対して誠意を表わす行為です。実生活でもメールや郵便よりも実際に訪問する事がより誠意を表わす行為ですが、相手が神様でも同じ事が言えます。出向く先が生まれ育った地域の神社であれば、皆が久々にそろった姿に神様もお喜びになり、今後一層の御加護を戴けるに相違ありません。まして、男42歳、女33歳の大厄と言われる歳の厄払いは神様の強い御加護が必要です。幹事さんにはこのあたりの事をもう一度お考えいただければ幸いです。 |
幸せはどこから来るか? 背筋をまっすぐ伸ばしていないと幸運は逃げてしまうのかもしれない。 平成21年8月1日 最近、「婚活」という言葉があちらこちらで聞こえるようになりました。この言葉は自分にとっては「はるかな過去」となってしまった言葉ですが、対人関係について最近になってやっと気づいた事があります。異性、同性を問わず「もてる」ためには、財産や容姿以外にも「自信」が必要不可欠ではないかという事です。第一印象で、自信無さげで、しょぼくれた人には誰も魅力を感じません。
不思議なもので、いくら隠そうとしても心の内側は次第に外見や仕草に出てきます。うつむき加減な姿勢をしている人はやっぱり自信が無いように見えますし、話をするとおどおどした感じの人が多いようです。 さてさてここで話は変わります。これはあくまでも私見ですが、幸せや幸運というのは地面と平行に飛んでくる柔らかいボールのようなものではないでしょうか。下を向いて歩いていると前から飛んできた「幸せ」は顔に当たって地面の方に落ちて転がって行きます。逆に上を向いて歩いていると今度は顔に当たった「幸せ」はお空の方向へ飛んで行ってしまいます。まっすぐ前を向いているとぶつかった「幸せ」は元来たコースを逆に飛んでいく事になります。そして地球は丸いので今度は後ろから・・・・・・・ 変な例えですみません。つまり、他人の好感を得るためには、しょぼくれてもふんぞり返ってもダメで、好感=幸せを逃している事になるのです。姿勢の悪い人はそれだけでかなり損をしているという事を言いたかったのですが、わかりましたか? 就職、結婚などでなかなかうまく行かない方は自分の姿勢をチェックしてみてください。「健全な体に健全な魂」というのは、姿勢についても当てはまると思います。背筋を伸ばしてまっすぐ前を向いて進んでいきましょう。自信が持て、運が開けるはずです。 以上、若いころから猫背だったので自分のためにも。 |
神葬祭という選択 神葬祭の特徴、そして長所と短所 平成21年6月3日 今回は葬儀の話です。「縁起でもない」とお思いになるかもしれませんが、誰でもいつかは、迎えざるを得ないもの。まだまだ遠い未来の事かもしれませんが、ほんの少しだけでも考えておいた方が良いかもしれません。
日本では、葬儀=仏式というのが一般的ですが、神式の葬儀即ち「神葬祭」という選択肢もあるという事を知っていただきたいと思います。「神葬祭」は神職や一部の人のみが行う特別な葬儀ではないのです。 「神葬祭」は、日本古来の姿を今に受け継ぐ葬儀の形式で、神職によって執り行われます。神道では、死を穢れ(ケガレ)と考えるため、仏式のように社殿の中で行われる事はなく、自宅や斎場で行われます。仏式では死後、戒名や法号が生前の社会に対する業績やお寺に対する貢献を考慮して授けられますが、「神葬祭」では諡号(おくりな)が故人の名前を基にして付けられ、仏式の戒名のような「上下」はほとんどありません。 拝礼の際には玉串(たまぐし)をたてまつり、2拝2拍手1拝(但し、亡くなってからしばらくは音をたてない)の作法を行います。また、お供え物については神前での祭典と同じ様に、「お魚」も用います。仏壇にあたるものを祖霊舎(みたまや)といい、ほとんどが白木造りで神棚と同じようなお供えを行います。そして、故人はその家の「守り神」として永くまつられることとなるのです。 さて、「神葬祭」の長所はなんでしょうか。一番は費用が安い事かもしれません。「神葬祭」では「戒名料」にあたるものがありません。諡号(おくりな)については、地方によって多少異なりますが、亡くなった方の年齢と性別によって、ほぼ決まった形式のものが用いられます。また、葬場祭(そうじょうさい・仏式の告別式にあたる)では、故人の業績や人生を偲ぶ祭詞(さいし)が奏され、古語ではありますが、仏式に比べてわかりやすいとされます。 逆に短所はなんでしょうか。これについては、墓地が少ない事に尽きます。墓地がお寺に所属している場合が多く、当然の事ながら「檀家」以外が入れる事はかなり稀なことです。墓地を所有している神社は非常に少なく、「神葬祭」の家では公共の墓地を探したほうが良いかもしれません。また、仏式に比べるとあきらかに頻度が少なく、周囲の人が不慣れな点も短所といえば短所でしょう。 墓地の問題については、今後「神葬祭」がもっと普及すれば、解決する問題でしょう。なによりも費用が少なくて済む「神葬祭」について真剣に考えていただければ幸いです。 |
辛い時こそ大チャンス!! 人を磨くにも研磨剤が必要? 平成21年3月9日 このところ、不景気であまりいい話は伝わってきません。製造業に大きく依存している我が町でも、話題はどうも暗い方向に行きがちです。今回はこんな状況下で「気休め」にでもなればいいなとと思いつつ、書いてみようかと思います。
辛い事やめんどうな事は、なるべく避けて通りたいところですが、長い人生の内には、人によって多い少ないはあっても、必ず遭遇してしまうものです。さて、こんな時に気持を切り替えて前に進むためには、辛い事、苦しい事を前向きに考える事が必要です。すなわち「艱難汝を玉にす(かんなんなんじをたまにす)」という事。辛い思いはあなた自身を磨くための「やすり」や「研磨剤」の役目を果たしてくれます。 また、神様はその人が耐える事が出来ないような辛い事、苦しい事はお与えにならないと言われています。辛い事、苦しい事は竹の節のようなもの。竹は節がある事によって丈夫かつ、しなやかに風や雪などに耐えられるのです。 そして、辛い時、苦しい時こそ知恵をしぼらなければならない時です。発明や発見は「必要」である時こそ生まれてきます。辛い時、苦しい時は、まさにその最大の機会なのかもしれません。 まあ、いろいろと書きましたが、要は悲観せずに気持を楽に持つことです。あまり深刻になってしまうと、かえって神様も助けづらい事でしょう。時にはじっくり構えて、好機を待つのも必要ではないでしょうか。 |
「命」いのちというもの あなたが生を受けてこの世に存在しているのは奇跡かもしれない。 平成20年11月10日 残酷な事件や、自殺が多いので今回はこんなテーマで進めさせていただきます。聞くところによると当神社のある岩手県では全国でも自殺の多い県だそうで、行政をはじめとして様々な方面でその対策が講じられているほどです。我慢強く、内向的な人が多いせいでしょうか。それにしても、あまりにも「命」を軽く扱うような事件が多発しています。
あなたがこの世に存在するという事には、お父さんとお母さんの存在が不可欠です。何をあたりまえの事を言っているのかとお思いになるでしょうが、お父さんお母さんにもそれぞれお父さんお母さんがいて、先祖をたどる毎に「2の○乗」で増えていきます。20代もさかのぼる頃には、なんと100万人を超えてしまいます。平均して25歳で子供が生まれるとすると、わずか500年で100万人以上のご先祖様がいる事になるのです。この500年の内で1人でも欠けてしまうと、あなたという人間はこの世に存在できません。そして、この100万人の中のたった1人が現実と違う人だったとすると、今のあなたは全く別の存在になっているかもしれません。 こうしてみると、太古から何代にもわたってご先祖さま達が「子をうみ育てる」という事があったからこそ、それぞれの人間が存在できるという事になります。「わずか1人、されど1人」数字でみると100万分の1ですが、この100万分の1が無いと未完成どころか跡形も無くなってしまうのです。 これは人間だけでなく全ての生き物についても言えることです。そして、これだけ大事に伝えられてきた「命」を次世代に伝える事が全ての生き物にとって最大かつ最高の務めなのです。人間にとっても、ご先祖さまから頂いた「命」を子孫に伝える事、即ち子を生み育てる事は、この上なく価値のある事に違いありません。 ところで、少子化が問題となり、政府では「男女共同参画」とか「子育て支援」とか様々な施策を打ち出しているようです。いずれも、女性が社会に出て働きやすくして、子育てと両立させようというもの。残念ながら、こんな事では出生率が上がる事は期待出来ないでしょう。このような施策の根底にあるのは、社会に出て働く方が、家の中で子育てするよりも価値のあること、素晴らしいという考え方です。他の生き物にとって最高に価値ある事が、人間にあてはまらないという事はないのではないでしょうか。「子を生み育てる事」の価値を全ての人が再認識すれば、女性の地位は上がり、職場だけでなく社会の中での子育ての環境も良くなるのではないでしょうか。無理に環境だけ変えても、考え方が変わらなければ、根本的な解決にはなりません。子育てについての啓蒙こそが、少子化対策の本命ではないかと思います。 ご先祖さまを遡っていくと、祖神(みおやのかみ)にたどりつきます。ご先祖さま、そして神さまから伝えられた命です。大切にするとともに、「子供なんかいらない」などと言うことなく、次世代に伝えましょう。仕事の上でどんな業績をあげたとしても、100年先まで伝えられる事は非常に稀です。でも、あなたの「命」のつながりは未来永劫ずっと伝えていく事ができるのです。 |
何気ない日常・・だから神社へ 競争率が低いところはやっぱり楽だなあ 平成20年8月3日 ここをご覧になるくらいの方ならば、そんな事はないとは思いますが、多くの方にとって神社は初詣以外には行かないところになっています。行ってもせいぜい年に3、4回程度ではないかと思いますが、如何??
確かにお正月は神様の神威が強い時なので、普段の時期の参拝よりも一層ご加護いただく事ができます。しかし、その後全く神社に参拝しない、しても年に数回ではせっかくいただいたご加護も弱まってしまいます。毎日とは言わないまでも、せめて月に1度程度は参拝してください。当然ですが、参拝の頻度が多ければ多いほど、良いのは言うまでもありません。 毎日は無理だけど、月に1、2度参拝してみようかという方におすすめの日。毎月の1日と、その神社の月次祭(つきなみさい)の日です。月次祭は多くの場合、年に1度の例祭(れいさい例大祭ともいう)と同じ日に行われている事が多いようです。つまり、9月15日が例祭の神社は毎月15日、10月17日が例祭の当神社は毎月17日です。普段、神主さんがいなくて、月次祭を行っていない神社でも、例祭と同じ日が良い日になります。このような日は普段よりも神威の強い日なので参拝の吉日となります。 また、神社では正月以外の時期は圧倒的に参拝する方が少ないので、そのような時期に足繁く参拝することによって、神様の「おぼえめでたく」なるのではないでしょうか。ひらたく言うと競争率が低い状態なので、「通りやすい」という事になります。神事に限らず何事でも、普段の積み重ねが大事です。神様については、一層この事が言えるのではないでしょうか。 |
初詣・祈願のツボ ○○もおだてりゃ、木に登る?? 平成19年12月9日 今回は初詣に限らず、神社や神棚の前で何かお願い事をする際の「ツボ」を書いてみようかと思います。副題の○○には普通、獣の名前が入りますが、さすがに神様の話をしようとしている時に比喩として用いるのは不適切かと思います。少ない知恵では他に思い浮かばなかったので、お許しのほどを。
さて、祈願の際には、一生懸命お祈り・お願いをするのはもちろんですが、多くの方が忘れている事。それは、お願いする前に神様に対して「感謝」する事です。常日頃のご加護に対して感謝申し上げてから、祈願をするようにした方が良いのです。実際に「祝詞」はそのような書き方になっています。そして祈願の際には、最初から自分や家族の事をお願いするのではなく、世界の事・国の事など次元の高いところから始め、その後に自分に関する事をお願いするようにします。 相手が人間の場合、「おだて」は物事をお願いする際にかなり有効ですが、神様が相手の場合も同じような事が言えます。ただし、神様の場合は「感謝」でなくてはなりませんが・・・。「おだて」という言葉は、「感謝」の気持ちが欠けています。しかしながら、神様のご加護をあまり意識していない方には、いきなり「神様に感謝しなさい」と言っても無理があります。そこで、最初は「おだて」から入るのも良いのではないでしょうか。一生懸命神様をおだてているうちに、本当の感謝の気持ちが持てるようになるはずです。 実生活のなかでも、相手に対していきなり「要求」から始めるのと、一通り感謝の言葉を述べてから本題に入るのでは後者の方が成功しやすいでしょう。神様に対して感謝の気持ちを先に出して祈願をすれば、神様の御心に叶い易いのではないでしょうか。常に神様に対して感謝の気持ちが持てるようになれば、言う事はありません。こうなると全ての人・物に対して感謝できるようになりますから、神様ばかりでなく、あなたの周囲全てがあなたを幸福へと導いてくれるはずです。 |
初宮参りだけは氏神さまへ 一番身近な神様に真っ先にごあいさつ 平成19年8月15日 初宮参りは赤ちゃんが生まれてから初めて神社に参拝して、健やかな成長を願う儀式です。生まれた日から数えて、31日目とか33日目とかに行うとされていますが、気候や母子の体調を考えて、これにこだわらず適当な日を選んで行った方が良いでしょう。上記の日数は「お母さん」の体調が元に戻る目安で、この日より早めて行う事はありません。
初宮参りの本来の意味は氏子の仲間入りをさせていただくということです。氏子即ち、地域住民の一員となる事で、いわば神様への出生届けということになります。 最近では、遠くの大きな神社にわざわざ出向いて初宮参りを行う方がいますが、これはあまり感心しません。地域住民の一員=氏子となるための神事ですから、遠くの大きな神社は関係が無いことになります。大きな町だからという理由で出生届けを遠くまで出しに行く人はいませんね。別に地域の氏神さまの氏子なんかになる必要は無いと思っている方もいるかもしれませんが、あなたやあなたの家族を日頃から最も守ってくださっているのが、他ならぬ氏神様です。本人が氏子になった気が全く無くともです。いわば、親の心子知らず。 せっかくお世話になっているし、わが子がこれからずっとお世話になるであろう氏神様ですから、他の祈願はさておき、初宮参りだけは氏神様にお参りしましょう。きっと、以前にも増して氏神様はあなたとあなたのお子さんをご加護くださることでしょう。普段神職がいなくてご祈願をお願いできず、他の地域の神社で行う場合でも、氏神様にお参りしてから出かけるようにします。 家を継ぐことを期待していた子供に、家を出られてしまったという話をよく聞きます。もしかしたら、最初の頃にその地域をお守りする氏神様とご縁を結ばなかったためかもしれません。親としては、子供にあまり遠くに行ってもらいたくないもの。そのためにも、初宮参りは氏神様にお参りしてご縁を結ばれる事をおすすめします。 |
神道は「超宗教」!! 世界に平和をもたらせるのは神道だけかもしれない。 平成19年6月22日 もし、神主さんに「神道は宗教ですか??」と尋ねると「宗教ではない」という答が返ってくる事が圧倒的に多いでしょう。宗教と呼ばれるものは教祖・経典・教義を備えていますが、神道ではそれがはっきりしないため、宗教には該当しないという事です。このように「狭義の宗教」とはかけ離れている神道ですが、タイトル通り「超宗教」と呼ぶにふさわしい他の宗教に無い、超すごい!!特徴があります。
いわゆる「カルト」と呼ばれる宗教の信者は「自分達が信じる教えが唯一正しい教えで、他の宗教は全て悪魔の教えだ」と信じこんでいます。正しい教えがただ1つだけなので、もしこのような宗教が100あれば99が「悪魔の教え」1000あれば999が「悪魔」という事になります。実際このようなカルト宗教はもっと多いでしょうからある「カルト」が「悪魔の教え」の確率は限りなく100パーセントに近づきます。単純に確率だけで考えてしまうと正しい教えである確率は宝くじの当せん確率並みになってしまうかもしれません。以上のような事から色々な宗教を作って互いに「我々こそが真実だ」と争わせる事が悪魔の戦略のような気がしてなりません。そして、残念な事に世界三大宗教の内の2つは、「我々こそが真実だ」と声高に叫ぶ存在なのです。 また唯一絶対の神を信じていても、様々な宗派に分かれお互いに争う事もしばしばです。これもまた、悪魔の戦略ではないでしょうか。神が神の名のもとに人間が殺しあうのを喜ぶとは到底考えられません。 神道には唯一絶対の神は存在せず、常人を超えた存在全てを「カミ」としてまつります。例えそれが他の宗教の神、外国の神であっても神道の「カミ」としてまつることができます。八百万(やおよろず)といわれる神の中に毛色の変わった神様がいても不思議ではありません。そして他を拒む事が無いため、宗派に分かれて対立する事もありません。 世界には、宗教・宗派の対立が原因となっている争いが絶えません。これは、「我々こそが真実だ」といって争わせる悪魔の戦略にまんまと乗せられての事ではないでしょうか。全世界の人々はこのような偏狭な信仰から脱却し、他の信仰や神を認める事が出来るようにならなければなりません。それこそが、全世界の人々が共存していくための正しい道なのです。 前にも述べた通り、神道は世界中の神々をご祭神としておまつりする事ができますし、宗派に別れて争う事もありません。これは全世界の人々が平和に生活していくために必要となる、神道の素晴らしい特徴ではないでしょうか。それぞれの民族がいままで信仰してきたすべての神々を受け入れてしまう、宗教を超えた存在・・・・・「超宗教」それが神道です。 |
お礼まいりのススメ 義理堅い人は信用されるというお話。 平成19年3月20日 受験シーズンも一段落し、新しいスタートに向けて希望に胸をふくらませている方も多いことと思います。当地方では公立高校の入学試験が3月初旬に行われ、合格発表は15日と決まっていますが、例年受験の前日や当日の朝には普段にも増して参拝の方が多くなります。
この光景は昔も今も変わりませんが、以前とは全く変わってしまった事があります。それは、合格発表の帰りに参拝に来る人が減ってしまった事。以前は合格発表当日の夕方になると、「満面の笑み」で参拝する受験生をよく見かけましたが、最近はちらほら。「当神社のまわりだけ合格率が下がったのか」などと考えたりもしましたが、そんな事はあり得ませんし、もしかしたら少子化による競争率の低下も原因の1つかもしれません。 前置きはここまでにして、「お願いしっぱなし」というのは良くありません。相手が人間であっても、何かお願いをしてうまくいったら報告を兼ねてお礼にうかがうのが「筋」というものです。例えうまくいかない場合でも、きちんとお礼を申し上げれば後々いろいろと助けてもらえる事があるでしょう。いわゆる「義理堅い人」は周りから信用され、協力もされるという事です。 神様だって同じ事。受験合格をお祈りしたのちに、合格のお礼参りをすれば、これからの学校生活についてもご加護が受けられるでしょう。あまりお礼参りをする人がいない今が大きなお蔭を受けられるチャンスかもしれません。 |
初詣・まわる順番 順序が違うと効果も半分。 平成19年2月7日 今年は久々に天候に恵まれたお正月となり、初詣は当地方でも例年以上の人出となりました。お正月が過ぎてからこんな事を書くのもどうかと思いましたが、次回以降の為にあえて書かせていただきます。
さて、世の中には「初詣のハシゴ」をされる方も相当いらっしゃるようで、毎年「○○神社と△△寺と・・・・・」というように近所を何箇所もお参りされる方、何時間もかけて相当遠くの有名な社寺をまわる方と、そのスタイルも様々なようです。 「初詣のハシゴ」自体は悪い事では無く、神様にはそれぞれ得意分野(巷で言われている商売の神様とか安産の神様とか・・・)がありますから、何箇所もお参りする事で色々な分野でのご加護を受けたり、ある分野での一層強いご加護をいただく事ができます。 しかしながら、それはあくまでも氏神様のご加護があってのお話です。氏神様はあなたがお住まいになっている地域と人を直接お守りくださる神様なので、まずあなたをお守り下さるのは氏神様です。場所によって「八幡様、稲荷様・・・・・」と氏神様は様々ですが、それぞれのご祭神である神様とともにあなたの遠いご先祖もいらっしゃいます。引っ越して来た方については、ご先祖様はいらっしゃらないかもしれませんが、「氏子」という言葉の通り、氏神様は地域の皆さんを子供のようにお守りくださるのです。 さて、そんな氏神様を「ホッタラカシ」にして、あなたは遠くへ初詣に出かけてしまいました。氏神様はさぞや残念にお思いの事でしょう。「親の心子知らず」とはこの事。どんなに「ご利益」のある社寺をまわっても、いわゆる「基礎」が出来ていないので、危うい物となってしまいます。「砂上の楼閣」です。 ですから、初詣の際にはまず初めに氏神様に行きましょう。氏神様を最初にお参りする事は、その「ご利益の基礎」を作る事です。いわば義務教育みたいなもの。そして、氏神様も真っ先に来てくれた事を嬉しく思われ、一層のご加護をいただける事でしょう。せっかく近くにあるのですから、正月以外にも足繁くお参りになれば、尚一層のご加護がいただける事うけあいです。 親の気持ちになってみれば、いつも来てくれる子供の方が、たまにしか来ない子供よりかわいいだろうし、言う事も聞いてやりたくなると思いますが、如何?? |
伊勢神宮式年遷宮 年頭のあいさつがわりに。 平成19年1月10日 平成25年は伊勢神宮(以下単に神宮とよびます)の式年遷宮の年です。式年とは定められた年、遷宮とは新しいお社を作って御神霊にお移りいただく事です。具体的には神宮では内宮(ないくう)外宮(げくう)をはじめとして末社にいたる迄、となり合って同じ広さのに2つの敷地があり20年毎に交互に立て替えが行われます。
全く同じ形の社殿が新しく隣に作られるとご神霊は新しいお社にお移り頂き、古いお社は取り壊され、20年後にまたこの場所に新しいお社が建てられます。ちなみに神様の調度品なども全く同じものが新しく作られます。この、20年毎に全く同じ物を造るという事によって1300年前からの建築・工芸技術が脈々と受け継がれてきているのです。ちなみに神宮の建築様式は「唯一神明造」といわれるもので、古代の穀物倉の様式を色濃く残す、貴重な文化財でもあります。 ところで、この制度は第40代天武天皇の時代に定められ、次の持統天皇の時代に第1回目が行われました。以来途中、戦乱などもあり中断した事もありましたが、次回で62回目を数えます。 多額の費用を要する事業ですが、常に御神霊に若々しく御神威を保って頂くためには必要不可欠なものであると古くから考えられてきました。そしてこの20年毎という期間についても、掘立柱を使った社殿の構造(現代の建築のように基礎の上に建てるのではなく、地面に柱を埋め込むという古代の建築方法)や、建築・工芸の技術の伝承(若手・中堅・指導者と異なる立場で一生の内に3度携わる事ができる)の上からも、まさに絶妙の期間であるとされます。 では、その多額の費用はどこから出てくるのでしょうか。以前は国の一大事業として国費で賄われていましたが、神宮も今となっては1つの宗教法人となってしまいました。広く一般に奉賛をお願いする事はもちろんですが、皆さんが毎年神棚に納める天照皇大神宮大麻(神宮大麻)の初穂料からもかなりの金額が捻出されています。天照皇大神宮のお札をおまつりする事によって伊勢の大神様のお蔭をいただけるだけでなく、我が国の伝統技術の伝承にも役立っているのです。 これをお読みになっている皆さんには、そんな方はいないでしょうけれど、もし天照皇大神宮のお札なんか必要ないと言う方がいたら、日本の伝統文化を後世に伝えるためにも是非、天照皇大神宮のお札をまつって下さいね。 |
いつも心に神様を!! 自身を律するためには信仰が必要です。 平成18年5月26日 最近、なにかと物騒な事件が多いようです。「カケラ程の良心も持っていないのではないか」と疑いたくなるような凶悪な犯罪が毎日のように報道されています。また、某建築士さんを始めとして、コマーシャルに犬を出していた所など「カネのためなら、手段を選ばない」という連中も増えてきているような気がします。 この人達に言える事は、すなわち「良心の欠如」という事なのでしょうが、良心が全く無いという極悪人ではないでしょう。「鬼」や「悪魔」に例えられる本当の悪人というのはかなり稀です。悪事をなす人でも、「カケラ程の良心」持ち合わせているはずです。でも、「ほんの小さな良心」だけでは、「甘い悪魔のささやき」から逃れるのはかなり難しいのではないでしょうか。 そこで「悪魔のささやき」を退け、良心を強くする方法。それは正しい信仰を持つ事です。心の中に「神をおまつりする」事です。「いつも神様が見ておいでになる。」という思いは良心を大きく大きく育てることになります。別に神でなくとも仏でもかまわいません。(個人的見解) 心を支配しようという「カルト」でさえなければ。 こうして見ると「宗教は阿片である」として宗教を認めない国々は国家的な犯罪が多いようです。他国の人の拉致、ニセ札作り、覚せい剤密輸をする国。自国内の異民族を迫害、抹殺しようとする国など、「良心の欠如」だけでは済まされないような事件が多々あります。共産主義自体がカルトであるという説もありますが。 世界には「無宗教の人」=「危険人物」と考える人々がかなりの割合で存在します。正しい信仰を広める事は社会正義の実現にもつながる事でしょう。どうぞあなたも、心の中に神様に住んでもらいましょう。 |
厄年について もしかして1年早くやってしまっているかも ? ? 厄年は災難・病気・怪我などが多い年とされ、男性は25歳・42歳、女性は19歳・33歳というのが広く全国的に行われています。他の年齢については地方によって差があり、当地域で行われている男女共通の49歳・55歳は他地域では一般的ではなく、逆に女性の37歳は当地域ではあまり行われません。
厄年の起源は平安時代の陰陽道とされ、江戸時代には現在の様なかたちになったと言われています。古くは「厄=役」で神事における重要な役を務める歳であり、その際に神前に祈った事が今日の「厄払い」のもとであるとも言われます。
ところで当地域では、中学校の同級生単位で団体で厄除け祈願を行う事が一般的ですが、その際の注意をひとつ。早生まれ(1・2・3月うまれ)の方は1年早く(すなわち前厄)行っている事になりますので注意。同じ学年だから厄年も一緒だろうと、お考えの方が多いようですが、学年分けが4月からとなったのは厄年が定着した時代よりずっと後の事です。早生まれの方は、「安心するのはまだ早い。本番はこれから。」となりますので特に注意してください。
特に大厄といわれる男性42歳・女性33歳や男25歳・女19歳については、多少の個人差はありますが医学的に見ても体調に変化が出やすい時期だそうですので、前後3年(前厄・本厄・後厄)はしっかり注意しましょう。
厄年は人生の節目です。竹の「節」は工作などの際、加工しにくく邪魔にされますが、竹は「節」があるために風雨や豪雪に耐えてしっかり立っていられるのです。厄年も人生の中では厄介な時期ですが、厄年を乗り切った事が竹の「節」のように今後の人生に一段と強さを加えてくれる事でしょう。
|
初詣・縁起の良い時間帯は?? と、いう質問をいただきました。答。やっぱり朝(午前中)だろうなと。祝詞(のりと)の中に「朝日の豊栄のぼり(あさひのとよさかのぼり)」という言葉があります。昇る朝日はこれから豊に栄えてゆく象徴なのです。昔から「元朝まいり(がんちょうまいり)」という言葉があるくらいなので、午前中がおすすめです。別に午後が悪いわけではありませんが、縁起が良いのはやっぱり午前中だという事。ちなみに祝詞では「夕日の降(くだち)」という言葉がありますので念のため。
「ニ年参り」と称して、大晦日の晩から元旦の早朝にお参りする方も多いようですが、これは一年の最後に今年一年間のご加護を感謝し、そののちに新たな年に一層のご加護をお祈りするものです。とても丁寧な参拝方法なので、試した事の無い方は一度どうぞ。
以前も書いたような気がしますが、大晦日の夕方からと、元日の夜は出歩かない方が良いでしょう。お歳神様は大晦日の夜においでになると言われています。大晦日の夕方からは、神様をお迎えするのにふさわしいように身を慎んでお歳神様をお迎えするようにします。それでは元日の夜は??・・・・・・・・・ かくし芸大会じゃなかった、初夢をみなくては・・・・・
|
家相は迷信か?? 岩手県神社庁刊行の暦には、単に吉か凶かしか書いてないので、私などには物足りない感じが致しますが、暦によっては「○方の便所、家業衰退し、散財の相なり・・・云々」とか「○方に水まわりあれば、火難、病難多く・・・・云々」というように、いかにもおどろおどろしい記述があるものがあります。家の間取りが即、具体的な不幸につながっていますので、科学的な根拠に欠けるとして「家相などという物は単なる迷信」と思ってしまうのは当然の事かもしれません。
では、家相は全くのでたらめなのでしょうか。家相は膨大な事例を分析して出来上がった、「最先端の科学」として昔の人々には認識されていました。そのために、「主人が若死」とか「家内に紛争絶えず」という事は無いにしても、現代でも十分に通用する所が多くあります。
例えば「鬼門・裏鬼門」ですが、これは家相において最も重視する箇所で便所、水関係などは大凶とされています。鬼門(北東)は陰の気が最も強い方位(最も寒くなる方位)、裏鬼門(南西)は陽の気が最も強い方位(最も暑くなる方位)ですので、衛生状態や家の設備が良くなかった時代に、鬼門や裏鬼門に便所、水関係を配置したら良くないのは明らかです。他にも
などなど、納得できる所が少なくありません。建築技術や住宅設備の進歩によって家相における「凶相」の程度は弱められているとは思いますが、「北側の玄関」よりも「南側の玄関」の方が使いやすく、現代になっても
「吉相」とされる家の方が住みやすいのは事実です。新築をお考えの方は、最低限大凶とされる配置を避けて設計される事を強くおすすめします。
|
恵方巻と歳徳神 ここ数年、節分になると「恵方巻」なる太いのり巻きを食べる行事が全国的に広まってきています。もともと、関西の風習のようですが、商魂たくましい「海苔屋さん」の活発な宣伝、そしてスーパー、コンビニ、寿司屋と関係業界一丸となった販売活動によって爆発的人気??です。イベント好きな日本人にとって「まつりのタネ」が増える事は大歓迎なのではないでしょうか。
また、そのイベントで、うるおう業界が多ければ多い程、あっという間に全国に広がっていくようです。クリスマス、バレンタインなどがその良い例でしょう。ですが、とても残念な事に
行事本来の意味が、商売に都合のいいように変えられてしまう事が多々ある事も事実です。
話は「恵方巻」に戻りますが、そもそも「恵方巻」の「恵方」とはなんでしょうか。「恵方」とは「歳徳」とも「あきのかた」とも言い、一年を通じて何に用いても良い吉方とされ、「歳徳神」がいらっしゃる方向とされます。そして、この方向はその年の十干によって決まります。
今年(平成19年)は丁亥なので壬の方、来年(平成20年)は戊子なので丙の方となりますが、元々の意味は
新しい年をもたらす「歳神様」がおこしになる方向とされています。
まあ、「何に用いても良い吉方」ですから、無言で太巻を食べても差し支えないわけですが・・・・・。でも、単に太巻きを食べる事が「歳徳神(歳神様)」のご加護を得る事につながるのか疑問です。「自分だけ食いやがって。」と思われても仕方ないのでは。
今年の節分に恵方に向かって太巻を食べても運が開けなかった方に
オ・ス・ス・メ!!。お正月に「歳神様」をきちんとまつってください。最近、「歳神様」の本来のまつり方が廃れてきています。本来は
とされています。そして、大晦日は「歳神様」をお迎えするために身を慎む日です。大掃除や正月用品の買出しなどで、ドタバタと過ごす日ではありません。正月準備は早めに終わらせて、少なくとも大晦日の午後くらいは家で静かに過ごしましょう。(10年程前までは、大晦日の夕方に出歩く人はずっと少なかったような・・って、なんで知ってるの??)
きちんと「歳神様」をお迎えすれば、開運間違いなし。他の家がイイカゲンにやっているので、あなたの家に「歳神様」が福徳を授けてくれる確率は非常に高いと言えます。歳神様」のまつり方は下をクリックしてください。
|
七五三についての提言
秋も深まってきて、これから七五三詣でを計画している方もいらっしゃるのではないでしょうか。受け入れる側から見て気づいた点をいくつか書いてみたいとおもいます。
うちのような田舎の小さな神社でも、お宮をバックに写真だけ撮って帰る方がたまにいらっしゃいます。聞くところによると、写真屋さんや衣装屋さんのなかにも
「七五三はキレイな着物を着て、写真を撮れば充分。神社なんか行く必要はない。」とお客さんに言う方もいるとかで、全く本末転倒も甚だしい限りです。
七五三は、「こどもが心身ともに健康に成長することを祈る。」予祝的行事であり、けっして着飾って写真を撮る行事ではありません。大概の日本人にとって「祈願」する場所は神社ですので、神社にお参りしてこどもの無事を祈るのは至極当然なことなのです。ですから、せっかく神社に来たのに参拝もしないで帰ってしまうのは、七五三という行事をやった事にはなりません。そしてさらに、昇殿参拝(正式参拝・ご祈祷)は、一段とていねいな参拝方法なので、行う方が多いというわけです。
繰り返しますが、七五三の目的はあくまでも「こどもが心身ともに健康に成長することを祈る。」ことです。晴れ着もご神前という「ハレの場所」に出るために着るものだから晴れ着なのです。
三歳のお子さん多いのですが、ご祈願の最中に泣き出す子がいます。知らない所に来て、見慣れない格好をした人が出てくるのですから当然と言えば当然。いきなり鳴った太鼓の音に更にびっくり。・・・・・というわけで当社の宮司などは、こどもたちに太鼓を叩かせて遊ばせてからご祈願をしているようです。
三歳のお子さんの七五三詣でを予定している方は、是非とも下見を兼ねて神社へお運びください。お子さんも何度か行った事がある場所ならば安心するはずです。行ったついでにお子さんに参拝の仕方を教えてあげてください。情操教育にも役立ちますよ。
朝○時に起されて、美容院、写真館、神社と売れっ子芸能人なみの日程をこなして、最後に着物を着たままでお食事会・・・・・。小さいお子さんはクタクタです。着慣れない着物ですから一刻も早く楽な格好にさせてあげてください。
場合によっては、着物を着て写真を撮る日と神社に参拝する日を分けることも可です。なにも「赤いべべ」だけが「晴れ着」ではありませんので、神社参拝の際には着慣れた洋装でもかまわないのです。もっとも結婚式の場合などは「前撮り」が普通だとか。
ご祈願の最中に眠っている子、よくいます。
|
私見 神仏の違い
たまーーに、神と仏ではどこが違うのかと尋ねられることがあります。だいたい酒席での場合が多いので、「漆や金で派手なのが仏、白木で地味なのが神」とか「魚や酒をお供えしてもいいのが神、ダメなのが仏」などと、割にイイカゲンな答でその場はごまかしておりますが、本日は自分なりに真面目に考えてみたいと思います。もとより仏教についてはわかっているはずもなく、あくまでも「私見」ということにさせていただきます。
神と仏の違い、即ち「神道と仏教の違い」ということになると思いますが、普通の日本人にとってお寺は「死んでから世話になるところ」で神社は「生きている人が行くところ」と割にはっきり分けられているのではないでしょうか。お寺の中にも「生きている人が行くところ」が多々ありますが、そのようなお寺は表立って葬儀をやっているようには見えません。そして、このあたりの事がひとつの鍵となりそうです。
この「普通の日本人が認識している神と仏の違い」は、両者の根本的な違いを最も明らかな形で表しているものと考えます。すなわち、人間の世(現世)に対する評価が、神道と仏教では正反対なのです。
最大の違いはこれではないでしょうか。
仏教の開祖お釈迦さまは現世は文字通り四苦八苦の世界であり、そのままでは永遠に六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を輪廻して救われる事は無く、悟りを開いて解脱しなければならないと説きました。いまや様々な宗派がありますが、現世を迷いに満ちた世界として悟りを開く事を目的とするのは全て一緒です。方法や過程が異なるために多くの宗派が生まれてきたという事です。ですから現世肯定的な宗派というのお釈迦さまの教えに反しているので、本来の仏教異なると言えるでしょう。
かたや神道では現世に対して肯定的ですから、どうしても現世利益(商売繁盛、家内安全・・・・・)を重視することとなります。そして「足りない分は神様にお願いしよう」ということになり、現世での幸せが追求されます。「豊作でありますように」「災害や病気にあわないように」そういった願いは全ての人共通のものなので、全ての人が幸せになれるように、この様な事を願って神社のお祭りがおこなわれてきました。
卑近な例ですが、「最新モデルのパソコンを買おうとしたけれど少しお金が足りかった。」こんな状況での対応の違いで両者の違いがはっきりするのではないかと思います。
いずれにしろ日本人が生者=神道、死者=仏教と使い分けをしているのは、誠に道理にかなっている訳で、頑迷な一神教の立場から考えると、理解出来ないのでは・・・。
|
笑 門 来 福 平成16年5月21日
「笑う門には福が来る」ということで、明るい人は他人から見ても幸せそうに見えますし、まわりから好感を持たれたりして何かと有利な事が多いようです。人間の心情として、仏頂面のヤツよりも、いつもニコニコ笑顔の人の方に好感を持つのが当然でありましょう。
「どんなに苦しいときも君は笑っているから・・・」どっかで聞いたような言葉です。いつも笑っていると「頭のネジがゆるんでいるのではないか」と思われることもあるようですが、苦しいときこそ心に余裕がひつようです。笑えるくらいの余裕があれば、原因が何なのか余裕をもって考え、対処できるでしょう。深刻に考え、悲観し、追い詰められた余裕のない状態ではなかなかいい結論に至らないのではないでしょうか。
人間なら誰でも色々な「欲」があります。「思った通りにならない」「足りない少ない」といった満たされない欲が「苦しみ」や「つらさ」に変わります。全てが思い通りになる事などありえません。目標のレベルをほんの少し下げるだけで相当に苦しみから解放されます。欲望を少しだけ抑えてください。そして、自分が今あることを神様や祖先に感謝しましょう。感謝の心は、自分も周りも幸せにします。
苦しいときでも笑っていられるようになると、苦を苦と思わなくなります。苦しい事、つらい事に真正面からぶつかり、乗り越えて行くことができるようになります。泣いて過ごすも、笑って過ごすも一度の人生です。日々を明るく楽しく過ごしましょう。
|
近頃のお子様
近頃、こどもが犯人の凶悪事件がヤケに多いと思いませんか?。私がこどものときも結構、悪いことやイタズラはしましたが、さすがに殺人や恐喝まではやりませんでした。(本当です。疑わないこと。)
政府では、悪質化する少年犯罪に対して一層厳しく罪が問えるように法改正する方向のようですが、法のみでこの状況が改善できるのでしょうか。
最近のこどもは努力と忍耐力に欠けるといわれています。要するに粘りと根性が足りないということです。粘りと根性が足りないのですぐ切れるのでしょう。(多分) 私事ながら家のこども達に登山に行こうと誘ったら、その答えは「疲れるからいやだ。」でした。私がこどもの時代には嬉々としてくっついて行ったものです。(単にバカだった?)学校のクラス登山も喜んで行く児童は珍しいとか。算数嫌いの子が増えているのも粘りと根性が足りないからだそうです。
そして、愛情の深い家庭に育ったこどもは、事件を起こす割合がかなり低いことが知られています。理想としては、父親がこどもを叱り、母親がそれをかばうような家庭がベストとの事。(どっかの家のようにカアチャンがこどもと一緒にオヤジをつるし上げるのは最悪)
これにより、こどもはバランスのとれた一人前の人間に育っていくのです。これに加えて両親や周囲の人々に対する愛情を育むことが実に大切になってきます。
で、世の中のお父さんへ!! 肉親や家庭に対する愛情を育むには、神棚や仏壇に家族そろって手を合わせる事がとても効果があります。神様やご先祖様がいらっしゃったことにより、お子さんがこの世の中に生を受け、今があるのだということを教えてあげてください。亡くなった方のいらっしゃらない家庭では普通、仏壇はありませんから、そんな家庭では是非とも神棚を設けてください。「神様はご先祖様とは関係ないだろ。」と言われるかもしれませんが、実はご先祖のご先祖のずーっとご先祖は神様なんですよ。
|
どんと祭について
なんで今頃どんと祭の話題かといいますと・・・・。あらためて皆さんに環境問題について考えていただきたいと思ったからです。
一時期、ダイオキシンの問題が取り沙汰されて、各神社で行われているどんと祭が目の仇にされた時期がありました。これに対して各神社は、お守りの素材から塩化ビニル系の樹脂を廃して、お焚き上げの際のダイオキシン排出を極力抑えるべく努力してまいりました。その後、ダイオキシンの問題はあまり語られなくなり、どんと祭も伝統行事として法律には規制されなくなり現在に至っています。
ところで、どんと祭でお焚き上げする物のほとんどが「お札」や「お守り」ではない事をご存知でしょうか。量にして八割以上がしめ縄などの正月飾りやお人形など出自が神社では無い物で占められています。そして、これらの物はダイオキシンを排出する原因となる物がかなりの割合で含まれているのです。市販の飾りつきのしめ縄にはいまだに塩ビの部品が使われている物が多々ありますし、塩ビでなくても「おもち、みかん」などの「生もの」は直接ダイオキシンを発出させませんが、燃焼温度を下げ、ダイオキシンの排出量を増加させます。
これら、ダイオキシン排出の元となる物については絶対にどんと祭にお納めにならぬようご協力をお願いします。特にしめ縄についてはどんと祭でお焚き上げするものですから材質に注意して紙製などをお求めください。「塩ビ」を使った製品が売れなくなれば業者も製造しなくなります。
「おもち」はお供えしたなら必ず食べるべきです。神前にお供えすることによって食物には神様の「みたま」が宿ります。食べるという事は、これを体の中に取り入れることによって神威を直接体内に取り込むことになるのです。神様のみたまの入ったものを食べることなく無駄にしてしまったりしたらどうなるか・・・・・・・。怖い怖い・・・・・?。
|
|
|