例祭日 ご由緒 延暦20年(西暦801年)坂上田村麻呂公の蝦夷征討のおり、公は士卒等を従え当地にさしかかった。その時、一天にわかにかき曇り、大木は倒され小石までもが吹き飛ばされるような凄まじい嵐となった。士卒等は蝦夷の首領悪路王の呪いに違いないと恐れおののき、一歩も前に進めなくなってしまった。
田村麻呂公は日頃から信仰の厚かった熊野権現にご加護を一心に祈られた。突然、雲の切れ間から鶴が現れ一同の前に舞い降り、「御世万歳」と叫ぶと雲は晴れ渡り、荒れ狂っていた嵐もすっかり収まってしまった。これにより田村麻呂公等は難を逃れることができた。そして、熊野権現の神恩に感謝してこの地に建立された社が当神社の始まりと伝えられている。
その後暫くは荒廃していたが、中世この地方を支配した柏山伊勢守によって再興され、修験の良善院により神仏習合の祭祀が明治まで続いた。そして、明治政府の神仏分離の方針によって修験は廃され、慈覚大師作の本尊不動明王は当社および当地方の堂宇の多くの仏像とともに焼き払われたと伝えられている。
明治4年、西根地内の13社を合祀し、以来「合社」と呼ばれ現在に至っている。同年、大教宣布の詔により村社となった。
ご神徳
ご祭神は、我が国土をはじめとして様々のものをお生みになった夫婦神にして、ご神徳はあらゆる産業の守護、縁結び、夫婦和合、家内安全、交通安全など各方面から広く崇敬を集めている。
|
明治4年境内に再興した。それ以前につい ては不
明。昭和46年に氏子崇敬者の祖霊を合祀した。
足腰など下半身、旅行安全、安産など、特に健脚を
祈願してわらじを奉納する慣わしがある。
|
|